【川上峡探訪】昔、官人橋はもっと南にあったのです

官人橋と龍登園

「佐賀市街からなら赤い鉄橋を過ぎてすぐの所、福岡からなら赤い鉄橋の手前に龍登園の入り口があります」

当館の入り口を説明する時必ず出てくる赤い鉄橋、名前を「官人橋(かんじんばし)」と言います。龍登園のイメージとこの橋をセットで覚えられている方も多いのではないでしょうか?
この橋、以前はもっと南にあったのをご存知ですか?

場所でいうと約80mほど南に下った辺りだったようです。
佐賀県立図書館のデータベースにあった大正15年の古地図でその辺りを見るとなんとなく場所がわかります。

その頃は川の中に島があり、そこを挟んで長短2つの板橋が龍登園のある側の都渡城から與止日女神社のある川上宿をつなぐ様に架かっていたそうです。その当時は6~8月は川が増水して使えないため、その時は渡し船で行き来していた様です。

川の東側の都渡城には乙文殊宮や鍋島直正のお墓、鍋島家の庭園(十可亭)などがあり、大正2年から昭和12年までの間は佐賀市街からの軽便鉄道の駅もありました。そこから橋を渡って土手を上がると與止日女神社や実相院などがある川上の宿…という川上峡観光の軸だったわけですね。

(ちなみにこの中の島は「石井樋」などで佐賀の水利を改善した成富兵庫が作ったものだそうですので、これもまた水害防止のためのものだったのではと思われます。川上峡の渓流を下ってきた激流に中の島をぶつけて川の力を弱め、下流の石井樋の効果を高めようとしたのではないでしょうか。ご存じの方いたらお教えください。)

この橋、その後何度か水害で流されその都度再建されたのですが、1949年(昭和24年)に流された際に現在の位置に現在の形で架けられました。

ところで、何故この橋「官人橋」と呼ばれているのでしょう?

これ、元々は「勧進橋」と書いたそうです。
「勧進」とはお寺や神社の建立や修繕の費用として寄付を集めることです。歌舞伎の演目に「勧進帳」という作品がありますが、勧進帳とは寄付を頂いた人の名前や寄付の内容を書き記した帳面のことで、安宅の関で正体露見の危機に瀕した義経を守るため弁慶が白紙の巻物をいかにも本物の勧進帳であるかのように読み上げてみせるのが見せ場の一つになっている作品です。

「勧進橋」と言った場合、寺社の建立や修繕のための寄付金として通行料を取る橋のことを言うんだそうです。ざざっと調べた範囲で明言はされてませんが、名前から推測してそういった橋だった可能性はあると思います。(ただ、誰が何の勧進として用意したかはわからないのです。ご存じの方いらっしゃったらお教えください)

「勧進橋」が「官人橋」になった正確な時期はわかりませんが、明治39年頃の文献にはまだ「勧進橋」との表記があったそうで、おそらく大正の頃に切り替わったのじゃないかとのことです。
ちなみの明治時代には有料の橋というのが全国的にも結構あったようで、ググってみたら新潟の信濃川に架かっている萬代橋の例が出てきました。この橋の場合、明治19年に有志の民間人が作った私営の橋で、建設料の補填として料金を取ることが認められていたのですが、その後交通インフラとしての重要度が高まったため、明治33年に県が買取り無料となったそうです。勧進橋→官人橋の変化にもなにかそんな事情があったのかもしれませんね。

今回の記事はさがの歴史・文化お宝帳の官人橋のページ市のサイトに有った大和町史のPDFなどを参考にしました。

あ、それと佐賀新聞のこちらの記事もおすすめです。
記事の最後にあるドローン撮影の動画に龍登園も写ってます!!


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