山内の主 神代勝利と川上峡のお話

神代勝利の墓昨日、時間があったので嘉瀬川ダムのほとり、ダムの駅「しゃくなげの里」のちょうど対岸にある神代勝利の公墓に行ってきました。
「公墓」というのは、実際に遺体が埋められた場所ではなく一般の方のお参りのために用意されたお墓で、神代家で供養の行事が行われたりする時に会場となった場所で、以前は神代家の菩提寺 宗源院にありました。
ちなみにダム建設で移動した際、一緒に並ぶ歴代住職や神代家関係者のお墓からは副葬品などが多く出ましたが、神代勝利の供養塔からはなにも出てこなかったそうです

さて、この神代勝利ですが、脊振山地全域を表す山内(さんない)二十六ヶ山の総領だった方です。
戦国時代を舞台にしたゲームなどではマニアックな人気を得ている武将の一人だったりします。
その生涯はとてもドラマチックなエピソードに溢れた方で、私も好きです。

今日はその中でも、当館のある川上峡と関係のあるエピソードを紹介したいと思います。

神代勝利と不倶戴天の関係にあったのが肥前の熊と呼ばれた龍造寺隆信。
隆信はいくども勝利を倒そうと山内に軍を進め、一度は山内から追い落とすことに成功しますがすぐに取り返されてしまい、以後は平地に誘い出す作戦に切り替えます。
そこで、隆信が勝利に向け挑戦状を送り川上を舞台に行われたのが「川上川の戦い」です。
時は永禄4年(1561年)9月13日のこと。
神代勝利7,000に対し龍造寺隆信10,000、数では龍造寺側が優っていましたが、勝利率いる山内の兵は勇猛な強者揃いで開戦時点ではどちらが勝ってもおかしくない状況だったようです。

勝利は與止日女神社の総門に陣を置き、その南側に長男 長良、次男 種良が布陣し、龍登園のある都渡城側には三男 周利が陣を敷きました。
龍造寺軍は長良軍に対しては西山田に、種良軍に対しては東山田に陣を配置し、周利軍への別に軍を向かわせ対陣します。

戦いが始まると神代側は勇壮に戦い五分五分の状況でしたが、数刻後、都渡城側を守っていた周利が裏切り者によって暗殺され、東側の軍は混乱・敗走を始めます。

與止日女神社側にもこの様子が伝わり龍造寺軍はそれとばかりに襲いかかります。
長良軍も種良軍も必死に堪えますが徐々に押されていきます。
両軍必死の攻防の中、激戦の末、次男種良は御手洗橋(そよかぜ館の手前にある小さい橋)付近で討ち死に。
長良軍にも怒涛の勢いで迫り来る龍造寺軍を見て、勝利は自ら長良を救いに行こうとします。
しかし総大将がやられてしまっては再起の目も無くなります。
家臣たちが必死で止め、退却戦に移ります。
しんがりとなった長良、瓦解してもおかしくない軍勢をしっかりまとめながら退却を行います。勝利も長良も、一時は追い詰められ死を覚悟しますが、家臣の命をかけた奮戦によりなんとか虎口を脱します。

2人の息子と多くの家臣を失った神代勝利と長良は、その後大村の波佐見に逃れて雌伏の時を過ごします。

というわけで、川上峡が神代vs龍造寺の運命を大きく動かした戦の舞台となったというお話でした。

川上峡の鯉のぼりそんなことを思いながら眺める川上峡。
今は鯉のぼりが勇壮に泳いでいます。


ちなみにこの記事はこのブログを参考にさせていただきました。

九州戦国史~室町末期から江戸初期まで~

特にこちらのカテゴリーは川上川の戦いが目に浮かぶようで秀逸です。

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