【葉隠拾い読み】『葉隠』とは生かすことと見つけたり(←独断)

龍登園のある佐賀市大和町の松梅地区周辺は日本の武士道を語る上で欠かせない『葉隠』が生まれた地でもあります。
『葉隠』と言えば有名なのは「武士道といふは死ぬ事と見附けたり」の一節が有名です。
三島由紀夫もこの書を愛読し解説本などを書いていますが、その人生に大きな影響を与えたことは彼の最期を見ても明らかであるように思われます。
そんなためか、この言葉に代表される「滅私奉公」「峻厳な自己犠牲」の部分だけが大きくクローズアップされがちな様に思います。
確かにそうした思想は色濃いのですが、本当にそれだけの、つまり「ただ自殺する」ことを推奨しただけのものだったのでしょうか?

こちらのサイトでは、なんと『葉隠』の5巻までの原文と現代語訳を読むことが出来ます。
とは言えなかなか読みにくいので、実際本の形で読んだ方が読みやすいとは思います。

先ほどの言は聞書第一の二で登場します。
でも、同じ聞書の二〇番には例えばこんな話もあります。

結婚の際の嫁入り道具の話し合いをしている時、目上の人が「琴と三味線が無いがこれは無いとダメだ」というと、目下の人間がみんなが聞いているところで「いや不要ですよ」と答えたが、翌日になると「無いわけにいかないものだから特上のものを2組用意しましょう」と言って追加したという話を聞いて、(ちゃんと相手の言葉を聞いて考え直したのだから)気持ちのいい人物だと言ったら「いや、自分のことだけ考えてて目上の人への配慮が無い。不要なものと思っても“ごもっともです。でも、あとでもう一度検討しますね。”といったん受け入れて目上の人が恥をかかないようにするべきだし、結局は必要だからと追加したのでは、目上の人に恥をかかせた意味も無くなっている。」と言われた。

これって、滅私と言うより思いやりやマナー、もしくはコミュニケーションの話ですよね?

あるいは同じ聞書の二十四番には、

ある人が事細かに倹約すると言ったけど、それは良くない。水が清過ぎるとかえって魚は住みにくくなる。ある程度見逃し聞き逃しがある方が下々の安寧につながる。人の生活もそうあるべきだ。

清らかな水よりも、少し濁ってでも様々な生命に満ちた水の方が、生命にとっては住みやすいのは生態学の基礎知識の一つ。
ビシバシ厳しく取り締まるより、少し緩めた方がみんなが住みやすくなるという考え方は、死ぬことを重視する思想とは真っ向から対立します。

この二つの例と「…死ぬことと見つけたり」とをつなぐものは何でしょう?
“武士道とは死んで見せること”ということと、目上の人を慮ったり、見逃し聞き逃しの効能を語ることとをつなぐ線はあるでしょうか?

これは私の超個人的な解釈ですが、ここで言う「死ぬ」は必ずしも肉体的な「死」ではなく、精神的なものの死を含むものなのではないでしょうか?
例えば、社会的な死、思想的な死、感情の死。
「目上の人への配慮」の話で言えば「私の意見が正しい」という“自分を大事に思う思い”の死。
「倹約」の話で言えば“清くありたい”という思いの死。
(もちろん切腹や滅私奉公の果ての死も含まれるのでしょうけど)
それらの「死」を恐れず受け入れることで、人々が安心して暮らせる世界を目指すことを「武士道」と考えるなら、これらのお話はすべて一本につながります。

他を生かす為に自分の中の諸々の死・変容・破損・苦痛を恐れないことこそが武士道。
そう捉えないと整合性が取れないように思うのです。
どうでしょう?

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